はらり、はらりと薄紅色の花弁が舞い落ちる。
大きく枝を広げたその木は、今や花の盛りも過ぎかけて、ほんの少しの風になぶられるだけで、あえなく衣を散らしている最中だった。
お誂え向きに、空には丸い月が姿を見せ始めている。
パーシヴァルは木の根元に腰を据えて、ブラス城で過ごす最後の晩を、気に入りの場所で独り過ごしていた。
「やはり、ここにいたのか」
木の幹に背を預けて空を見上げていたパーシヴァルは、耳に馴染んだ声に、ちらと視線を向けた。
「皆が待ちかねているぞ、パーシヴァル。主役がいなくて、宴が始まるか」
「すぐに行くさ」
腰に手を置いたポーズで、ボルスはパーシヴァルを立ったまま見下ろした。
明日の朝、パーシヴァルはブラス城を出立する事になっていた。
騎士の位を返上し、故郷に帰るのだという。
ようやく復興し始めたイクセの村の状況は六騎士の誰もが知るところであったので、そのことについて反対するものはいなかった。
その代わり、今夜は気心の知れた男同士で夜通し飲んで、パーシヴァルを見送ってやるつもりだった。
当人はそんな周囲の心境を承知しているのかいないのか、相変わらず飄々とした態度を崩すことなく、自分の後任に引継ぎを終えて、身の回りの整頓を済ませていた。
すぐに行くという言葉に反して、その場を動こうとしないパーシヴァルをもう一度見直して、ボルスは僅かに眉をひそめた。
が、気を取り直して、自分も視線を虚空に上げた。
そこに広がる薄紅のヴェールの美しさに、一瞬言葉を呑む。
ボルスの様子に眼を遣り、パーシヴァルは言葉を投げた。
「ここにいると、よく分かったな」
「ああ、少し考えれば分かることだ。毎年、この時期になると、お前の姿が城内から消えていて、気が付いて探し回ると、いつもここに居た」
パーシヴァルとは、騎士になって赴任してきたばかりの頃からの付き合いだった。全く性格が違う為に苛々させられることも多々あったが、それもいつの間にか乗り越えてしまっていた。
「そうだったか?」
「伊達に長い付き合いじゃない」
ボルスの言葉に僅かな寂寥を感じ取り、パーシヴァルは微かに笑んだ。
「こんな木、お前以外は気にも留めていないぞ」
「まあ、そうかもな。だが、珍しい花だろう。春先に咲いたと思ったら、一瞬で散ってしまう」
パーシヴァルが言い終わらないうちに、また春の生暖かい微風が吹いて、花弁が散らされてゆく。
パーシヴァルは手を差し伸べたが、一片の花弁は掌をすり抜けて地面に落ちた。
「俺は、こういうのが好きだね。掴もうとして、手に入らない……女も、それぐらい高嶺の花がいい」
ボルスは早々にパーシヴァルを引っ張って行くことを諦め、その傍に腰を下ろした。
「その高嶺の花を端から手折っていった奴の言う台詞か。ゼクセンの宿屋の女将も、酒場の女主人もお前に惚れ込んで、未だにお前を待っているそうじゃないか」
パーシヴァルは笑い、空惚けてみせた。
「そうだったか?」
「まったく……」
ボルスはぶつぶつと何事かを呟き、手近にあった野草をむしりとった。
「俺は、いつもお前に振り回されっぱなしだった」
「それは、すまなかったな」
神妙な声音にどきりとして振り向くと、パーシヴァルは目を細めて笑んでいる。
面白がっていると知り、ボルスはむっと黙り込んだ。
パーシヴァルがブラス城を去ると決めたとき、誰も彼を引きとめようとしなかったが、例外はボルスで、その噂を聞くやパーシヴァルの元に駆け込んで、怒鳴るようにして説得したのだった。
その説得がパーシヴァルの決心を翻すことは出来ないと知ってからも、ボルスは長い間納得できずに、パーシヴァルをぎこちなく避けていた。
パーシヴァルが去る頃が近づくにつれ、ようやく己を宥めたのだが、ボルスにはどうしても友人に聞きたいことがあった。
「……パーシヴァル、一つ聞きたいんだが」
「何だ?」
ボルスはパーシヴァルの横顔を見つめた。
「クリス様の傍を離れて、騎士であることをやめて……お前は、それでいいのか?」
すっとパーシヴァルの笑みが沈み、視線が空を仰いだ。
「痛いところを突いてくるな」
「……すまん。だが、お前の気持ちを聞いてみたかった」
この直情な友人の気性を好ましく思っているが、この場合、自らに曖昧な部分が残っていることを自覚しているパーシヴァルには少々手痛い問いだった。
自分も、ボルスも騎士団長であるクリス・ライトフェローを敬愛している。騎士としての忠誠も捧げている。
しかし、ボルスには何も告げていなかったが、パーシヴァルがクリスに抱く感情は、それだけで済まなかった。
「俺の気持ちは、そうだな……」
一呼吸置いて、パーシヴァルは苦笑した。
「俺にも分からん」
「パーシヴァル!」
途端に噛み付いたボルスに片手を上げて、軽く制した。
「すまん、別にふざけているつもりはない。ただ、本当に分からんのさ。今さら気持ちを変える気はないが、築いたものを捨て去るのを惜しいと思うのも、正直なところなんだ」
「……」
それに、とパーシヴァルは内心で付け加えた。
今まで目の前にいた「高嶺の花」を、もう見ることもなくなるのかと思えば、やはり迷うのだ。
「……それなら」
残れ、とボルスが言う前に、パーシヴァルは肩をすくめた。
「だが、俺には一仕事ある。そのためにはここに居られないし、仮に居残ったとしても釈然としないだろうな」
ボルスはぐっと詰まり、唇を噛み締めた。
パーシヴァルは薄紅の花に触れようと、すぐ目の前まで垂れ下がった枝の先に手を伸ばした。
「案外、これでいいのかもしれん」
「何故だ」
パーシヴァルはボルスに返答せず、あと少しで触れそうな花弁を指先で熱心に追った。
淡く純情な恋情を捧げているボルスとは違い、パーシヴァルのそれは、より具体的なものだった。
騎士として忠誠を誓った一方で、パーシヴァルはクリスがたおやかな若い女性であることも知っている。
銀の乙女と名を馳せるその鎧の下には、なだらかな曲線を描く肢体がある。
ただ単に、自分はその事を確かめてみたいだけなのかもしれなかった。
もしそうだとすれば、それは騎士の忠誠でも何でもなくて、
「――ただの、欲だな」
「何か言ったか」
「いや?」
怪訝そうに見つめてくるボルスに、パーシヴァルは一流のポーカーフェイスを通した。
ふと、悪戯心が湧いて、パーシヴァルはわざとらしく吐息した。
「どうした?」
「いや……。長い間黙っていたんだが、実は、俺には想い人がいてな」
「ほう」
「その人と離れなければいけないのが辛くて、迷っていたんだ」
興味が湧いたらしく、ボルスは軽く身を乗り出してきた。
「どこのご婦人だ?侍女の一人か」
「いや、もっと高貴な方だ」
「高嶺の花というわけか。俺の知っている方か」
「それはもう、よく知っているだろうな」
「……ほう」
ボルスは嫌な予感がして、眉を顰めた。
「まさか、その方は藤色の瞳をしていて、それは見事な銀の髪をしておられる……というつもりか」
パーシヴァルはにやりと笑んだ。
「ご名答」
「まったく……。ふざけるのもいい加減にしろ」
「ふざけていないさ」
思いがけず真面目な声音のパーシヴァルに、先刻のように騙されまいと警戒して見遣ったボルスは、表情を改めた友と顔を見合わせる事になった。
「騎士としては論外だが、それが俺の本音だ。……だから、クリス様から離れるのに、丁度良い機会なのかもしれないと思ったのも、本当だ」
「……パーシヴァル」
お互いに、クリスに対する感情を薄々悟っていたが、こうもはっきり明言されて、ボルスはどう返答するべきか言葉に詰まった。
が、すぐにパーシヴァルは表情を崩して微笑した。
「クリス様に手を出すなよ、ボルス」
「なっ……そ、そんなことをするか!」
一気に血の上った顔でボルスが声を荒げると、パーシヴァルはさらに笑って、こう言ったのである。
「俺は、次にクリス様に会ったら手を出してしまうかもしれないけどな」
「パ、パーシヴァルっ!!」
思わず剣の柄に手をかけそうになる自分を必死に抑えて、ボルスは友人の整った顔を精一杯睨みつけた。
「まあ、そう怖い顔をするな。第一、俺がどう考えていたところで、クリス様の気持ちがなければ、どうにもならないんだからな」
「それが、余計心配なんだっっ!」
叫ぶようにして言った後、ボルスはしまったと口を抑えた。
近頃のクリスがパーシヴァルを見る視線に、以前とは違う艶を帯びた色合いが含まれつつある事に、疎い身でも気付きつつあったのだ。
決してパーシヴァルにだけは言うまいと思っていたのだが、友人は嬉しそうに笑うと、地面から腰を上げた。
「お、おい、どこへ行く」
「どこって、皆が待っているんだろう?酒場に行くんじゃなかったのか」
あからさまにほっとした表情を浮かべたボルスを見て、パーシヴァルはおかしそうにしている。
「おい、まさか俺が今からクリス様を口説きに行くと思ったのか?まあ、それも悪くはないが」
「お、おい止せ、パーシヴァル」
ボルスは慌てて立ち上がり、すたすたと歩いてゆく友人の後を追った。
「最後まで俺を振り回すのは止せっ」
「そんなつもりはないんだがな」
後から追いついてきたボルスと賑やかにやりあいつつ、パーシヴァルはちらりと背後に視線を投げた。
一際強い夜風が吹きぬけ、薄紅の花々が宵闇の中に散らされてゆく。
一片の花弁が風に乗ってパーシヴァルの目の前を横切るのに気付き、手を差し伸べると、それはすんなりと掌に収まった。
パーシヴァルは口元に淡い笑みを刻み、それを拳の中に包むと、ボルスと共に仲間の待つ酒場に向かうべく、歩を早めたのだった。
・・・THE END・・・